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2008年03月24日

中納言の役割

こんな意味があったんですよね。
本当に興味深いお話です。

中納言(ちゅうなごん)は、朝廷組織の最高機関、太政官の職の一つで、大納言に次ぐ官位で、四等官の中の次官(すけ)に相当する令外官。漢風名称(唐名)は黄門[1]、黄門侍郎、門下侍郎、子向などである。官位相当は正四位上から従三位に異動。

大宝元年(701年)3月21日の大宝律令の施行で廃止されたが、慶雲2年(705年)4月17日に令外官として復活している。時に官位相当は正四位上。職掌は大納言の不足を補い、宣旨を奏上し、下問を待ち、太政官の合議に参加する、というもので、大納言とほぼ同様であったが、大納言のように大臣の代行をすることはできない。当初の定員は3人であった。天平宝字5年(761年)2月1日、重責にも関わらず、季禄が少ないということで官位相当を従三位に改める。その後、時代によって任官者は増減し、多いときには10人にのぼることもあったが、後鳥羽天皇の治世に8人と定められる。

実在の水戸藩主徳川光圀は、『大日本史』編纂のために家臣の儒学者らを日本各地へ派遣したといわれているが、彼自身が諸国を漫遊したという史実はないとされている。在世当時の光圀は名君としての誉れが高く、亡くなった時には

「天が下 二つの宝つきはてぬ 佐渡の金山 水戸の黄門」
という狂歌が流行った。この様な名君としての評判や、幕末における水戸学の浸透が後の物語の形成に影響していると思われる。後の物語の素材としては、光圀の伝記といわれる『桃源遺事』『久夢日記』や『水戸黄門仁徳録』などが残された。

当時の社会では現在に残る風習以上に、諱(いみな)は本人・直系尊族・本人が仕える君主のみが、プライベートないし畏まった特別の場面でのみ呼称できるものであり、目下の者が目上の者あるいは上位家系・上位職にある者などに対して諱を直言することを禁忌とし、呼称の際には、被呼称者が俗人の場合には官位・職制・居住地などを姓あるいは字(あざな)と併用、出家の場合には法名を用いたり、呼称者と被呼称者の格差が大きい場合には姓すらも直言をタブー視する風習が厳然と存在していた。このため、水戸黄門の名は、光圀が徳川御三家の一統である水戸藩の藩主であり、武家官位として権中納言(ごんのちゅうなごん)を名乗っていたことから、「徳川光圀」と直言することを避けるために、藩名である「水戸」と、中納言職の漢風別称(唐名)である「黄門」をとって広く用いられていた別称である


引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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