2007年11月11日
千利休の生涯
知られざる生涯がありました。
大変勉強になります。
栄達
和泉の国堺の商家(屋号「魚屋(ととや)」)の生まれ。家業は納屋衆(倉庫業)。若年より茶の湯に親しみ、17歳で北向道陳、ついで武野紹鴎に師事し、師とともに茶の湯の改革に取り組んだ。堺の南宗寺に参禅し、その本山である京都郊外紫野の大徳寺とも親しく交わった。
織田信長が堺を直轄地としたときに茶頭として雇われ、のち豊臣秀吉に仕えた。1587年の北野大茶会を主管し、一時は秀吉の重い信任を受けた。 1585年10月の秀吉の正親町天皇への禁中献茶に奉仕し、このとき宮中参内するため居士号「利休」を勅賜される。また黄金の茶室の設計などを行う一方、草庵茶室の創出・楽茶碗の製作・竹の花入の使用をはじめるなど、わび茶の完成へと向かっていく。秀吉の聚楽城内に屋敷を構え聚楽第の築庭にも関わり、碌も三千石を賜わるなど、茶人としての名声の絶頂にあった。
賜死
1591年、利休は突然秀吉の勘気に触れ、堺に蟄居を命じられる。前田利家や、利休七哲のうち古田織部、細川忠興ら大名である弟子たちが奔走したが助命は適わず、京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられる。七十歳であった。切腹に際しては、弟子の大名たちが利休奪還を図る恐れがあることから、秀吉の軍勢が屋敷を取り囲んだと伝えられる。死後、利休の首は一条戻橋で梟首させられた。
利休が死の前日に作ったとされる辞世の句が残っている。
人生七十 力囲希咄 吾這寶剣 祖佛共殺 堤る我得具足の一太刀 今此時ぞ天に抛
死罪の理由は定かではない。考えられる理由としては…
大徳寺楼門(金毛閣)改修に当たって増上慢があったため(自身の雪駄履きの木像を楼門の二階に設置し、その下を秀吉に通らせた)。
安価の茶器類を高額で売り私腹を肥やした(売僧(まいす)の行い)。
天皇陵の石を勝手に持ち出し手水鉢や庭石などに使った。
秀吉と茶道に対する考え方で対立した。
秀吉が利休の娘を妻にと望んだが、利休は「娘のおかげで出世していると思われたくない」と拒否し、秀吉はその事を深く恨んでいた。
…などの説がある。あるいは豊臣秀長死後の豊臣政権内の不安定さから来る、利休に親しい大名たちと石田三成らとの政治闘争に巻き込まれたためなど、さまざまな説が立てられている。利休が秀吉の政事に大きく関わったことは、大友宗麟が大坂城を訪れた際、豊臣秀長から「公儀のことは私に、内々のことは宗易に」と耳打ちされたことなどからも伺える。こうした政務への深いかかわりが自刃の全ての理由だとは断言できないが、利休の失脚を望む勢力は確かに存在した。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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